2016.05.23
“医療技術”によって世界初のレトルトカレーが誕生した?
現在からさかのぼること48年、1968年に世界初のレトルトカレーとして生まれた「ボンカレー」。これまでどこにも存在しなかった商品だからこそ、多くの人たちに受け入れられるために、さまざまな苦労があったといいます。「ボンカレー」のマーケティングを担当する大塚食品の社員に、“レトルトカレー誕生前夜から幼少期”の話を聞きました。
レトルトカレーが誕生した理由
―2月12日は「ボンカレーの日」「レトルトカレーの日」ですね。
「ボンカレー」が発売されたのは1968年2月12日、今から半世紀近く前のことです。「ボンカレー」という新商品発売だけでなく、世界初の市販用レトルトカレーの発売でもあったので、2007年に2月12日を「ボンカレーの日」「レトルトカレーの日」と定め、日本記念日協会にも登録しました。
―それまでは、レトルトカレーというものが世の中に存在しなかったのですね。これが、世界で初めて生み出されたきっかけというのはどのようなものだったのでしょう。
1964年、関西でカレー粉や即席固形カレーを製造販売していた会社を、大塚グループが引き継いだのが大塚食品の始まりです。「他社と同じことをやっていてもしょうがない」と、「お湯で温めるだけで、誰もが失敗しない一人前のカレー」の開発に取り組みました。
その頃は、ちょうど日本の高度経済成長期。具体的な消費者ニーズが顕在化していたわけではないようですが、世の中全体が忙しくなって、食品でも簡便なものが求められるだろう、きっと役に立つだろうという予感や読みがあったようです。
―袋に入れるという発想は最初からあったのですか。
アメリカの包装資材の専門誌で、ソーセージを真空パックにしたものが紹介されていました。それを見た社員が、カレーをそのようなパック詰めにすれば「お湯で温めるだけで食べられるようになるのでは」と考えついたと聞いています。
―大塚グループとしては、医療分野がホームグラウンドですよね。どうして食品事業やレトルトカレー開発につながったのでしょう。
当時、「医」と「食」は地続きでつながっているものという思いが強く、それで食品事業がスタートしました。
―「医」と「食」がつながっているという考えは、「医食同源」ということですね。
当然それもありますが、製造技術でも共通する部分がありました。
「ボンカレー」で使用しているレトルトパウチは、袋に入れた食品を専用の釜に入れて袋が膨張して破裂しないよう、圧力をかけながら加熱するという技術です。この製造方法は、もともと大塚グループで点滴液を高温処理で殺菌する技術の応用で、試行錯誤のうえ確立させました。
「世界初」ゆえに数多くの苦労を経験
―1968年の発売当初から全国発売だったのですか。
1968年は、まず阪神地区限定でした。全国発売は翌1969年の5月です。販売地域を広げるには、乗り越えなければいけない壁がありました。
と言うのも、最初の「ボンカレー」には高密度ポリエチレン/ポリエステルの2層構造の半透明パウチを使っていましたが、これは光を通し、わずかながら空気も通すので時間が経つと酸化によって風味を損なうという問題がありました。未知の分野の商品だっただけに、振動などの衝撃に弱く輸送中に破損するというケースもあって、そのままでは販売地域を拡大するわけにはいかなかったのです。
この課題に対して、包材メーカーの協力も得て、ポリエチレン/アルミ/ポリエステルの3層構造のパウチを開発しました。これは光と酸素を遮断し、衝撃にも強くなりました。賞味期限は、半透明パウチが冬場でも3ヶ月間という設定でしたが、3層構造パウチでは一気に2年間まで伸ばすことに成功しました。
―新しく珍しい商品ということで、発売当初から評判だったのでしょうね。
ところが、実はそうとも言えませんでした。2年間も腐らないのなら、保存料や殺菌剤を使っているのだろうという誤解を受けて、「そうではありません」と説明するのに苦労してきました。
―保存料や殺菌剤を使っていないわけですね。
そうです。レトルト釜で高温殺菌し、3層構造パウチが品質を保ちますから、保存料も殺菌剤も必要ありません。
テレビCMをきっかけに全国でブレイク
―新商品「ボンカレー」が人気を得ていくきっかけになったのは、どのようなことでしょうか。
何分これまで存在しなかった全く新しい商品ですから、イメージづくりと広告にも熱心に取り組んできました。まず、何と言っても当時たいへんな人気だった映画女優の松山容子さんを商品パッケージに起用したことが、当社の意気込みの表れと言えるでしょう。
そして、このパッケージと同様、松山容子さんのホーロー看板を作りました。これは営業のメンバーがそれぞれ自転車に重たい看板と道具を積んで行って、お店にお願いして設置させてもらうものです。当時20人ほどが担当し、一人が1日に50~60箇所を回ったそうで、これに奔走した先輩たちからは、なかなか大変な仕事だったと聞いています。
―松山容子さんはテレビCMにも出演されていますね。着物でカレーを作るという意外性がありました。その後、笑福亭仁鶴さんのCMも話題になりました。
1973年、当時若者向け番組で人気者だった仁鶴さんが、時代劇のヒット作「子連れ狼」に扮するというもので、「3分間待つのだぞ」が流行語になりました。これは面白かっただけでなく、「湯煎3分でできる」「お父さんにも手軽に食事が用意できる」という商品の特徴、消費者のメリットをうまく表現できていました。「ボンカレー」が全国区でブレイクした大きなきっかけとなったと言えますね。
※記事の内容は取材当時のものです
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